2018年の振り返り

 

 2018年ももう終わりです。

 僕の今年を月毎に振り返ろうと思います。ふぁぼもRTも貰ってないですが。

 こんな駄文を書く暇があったら年明けのゼミの準備をしろと思われる方もいるかもしれませんね。僕もそう思います。

 まあ、それとこれは別ということで。

 あと、かなり前のことも多くて記憶が曖昧です。もし事実と違う部分があったらすみません。

 

1月

 2018年の1月はまだ6セメ。はるか昔のことに思えるけど1年前。まだ普通に講義をとっていた。昔すぎて全然覚えとらん。

 6セメは水曜が全休だったのでかなり暇していたと思う。ヒトカラによく行っていた。

 1月なので実験は第3課題をとっていたと思う。N君が共同実験者で、すごく良い人柄でしかもめちゃくちゃ優秀で非常に話してて楽しかった。実験内容はあんまり面白くなかったけど。

 試験勉強は1人でカラオケ屋にこもってやっていた。暇だったし科目数も物性と統計力学だけだったので比較的楽だった。

 勉強できたにもかかわらず物性の試験はかなり想定外だった。結果的にAAを逃す。未だにちょっと納得ができない。

 受講してた時はなかなか分かりやすい講義だと思ってたけど今思い返せば自分の物性に対する苦手意識は払拭しきれなかったしそうでもなかったのかもしれないと思う。自分の努力不足と言われればその通りなんだけれども。

 教職の講義はひどすぎて出席がひたすらに苦痛だった。

 配属先志望調査はかねてから決めていた研究室を筆頭に、素核の実験で上位を固めて提出。自分の成績的にこぼれるなんてことはないと思っていたけど、2月末に結果が出るまではやはり不安だった。

 期末が終わって、第1次の所属講座の配属を見届けてから帰省することに。

2月

 所属講座は予定通り素核実験に決定。物性か素核かの違いはかなり絶対的な区分だったので結構ほっとした。結果見てからすぐ帰省。

 ぽつぽつと成績が出始める。物性がAだったのはちょっと納得いかなかったけど、期末で最後の最後でケアレスなミスをしてショックを受けていた統計がAAだったので許した。

 ぐうたらしながら研究室配属の最終決定を待っていた。途中、量子力学の厚めの本を買って勉強しようかと思ったけど、三日坊主に終わる。

 そして2月の最下旬に発表、無事第一志望に配属決定。実家のPCの前でガッツポーズした。

3月

 何してたかほぼ記憶が無い。実家でぐうたらしていたのだろう。

 成績がほぼ出そろっていたと思う。色々と腑に落ちない点はあったけど、B以下が無かったのでひとまず良しとした。

 あまりに暇だったので、血迷った結果、4年にもなってバイトを始めることを決意。教職とってるからという安易な気持ちで塾講師のバイトに応募する。

4月

 こうして長期休みに実家に入り浸ることはもう無いのだろうなと思って秋田を経つ。

 研究室にはじめて行く。小学校の頃の新学期くらいの高揚感があったが、与えられた居室の備品が結構ボロくてちょっぴり萎えた。今ではかなり愛着あるけど。

 研究室の同期や上級生ともそれなりに話せた。とりあえずある程度仲良くなるまではプリキュアとかの趣味は隠して過ごすことを決意。

 研究室のゼミが始まる。テキストの英語がわからん! 最初の頃はノートに日本語訳を作ってたけど、やはり長続きせず。英語が分からなくて単語を何度もググる

 考えた結果、7セメは講義は先行履修以外は履修登録せず、ただ聴きにいくだけにした。卒業単位は揃ってるっぽいし、教育実習で途中抜けるし。

 教職実践演習のガイダンスをすっぽかすという失態を犯す。完全に忘却していた。これを教訓に手帳を買ってスケジュール管理をとるようになる。

 サークルは恒例の新歓。新入生の顔と名前が覚えられない。

 塾の先生のバイトを始める。研修が淡々と続く。

5月

 加速器実験への参加のために受講が必須の放射線取扱者講習会が教育実習と日程的に被っていることが発覚。教職をとってきた過去の自分を恨む。しかし教育実習をドタキャンするわけにはいかず、放射線講習会を諦めることに。

 中旬から下旬にかけての2週間、教育実習のために久々の母校へ。大学生活ではルーズになりがちな礼儀面をかなり意識させられた。

 実習内容は守秘義務があるので、言える範囲で。

 僕を担当することになった教員は、なかなか良い人だった。教育実習生の苦労をよく分かってくださっていた。けど、欲を言えばもう少し、あと1、2回は授業をさせてもらう機会が欲しかったと思う。

 やはり子供と接するのは非常に楽しいし自分は好きだと思った。けれど授業の準備と毎日の日誌の記入が時間かかりすぎる。指導案も書いたことなかったから見よう見まねでかなり苦労した。

 高校の頃教わってた授業を実習生の立場で見ると、相当上手いなあと思う。こんなに上手いとは思わなかった。1回1回の授業で、その中でストーリーがちゃんとある。当たり前だけど経験が違うし、長年の洗練を経ているのだと。

 あと、実際に授業を作ろうとすると、アクティブラーニングというものを現場の教員も周りの実習生もかなり取り入れていて、黒板で板書する気満々だった僕はかなり戸惑った。結局、出来ることをしようと思って板書でやった。

 最後の研究授業は崩壊した。思い出したくない。

 教育実習を受けて、僕は教員にはならないという結論に至った。子供に接するのは楽しいけど、少なくとも今の僕の体力では絶対無理。

6月

 教育実習から仙台に戻ったら、僕がいない間に友達が院試ゼミを始めていた。奮然としながら僕も参加させてもらうことに。

 戻ってきたら案の定講義は何言ってるか分からなくなる。先行履修のやつは研究室同期からノート見せてもらったけど、他はこれ以降出なくなった講義も多数。

 研究室は相変わらずゼミだけ。

 バイトは教育実習で抜けていた分の研修期間が続く。この頃はまだ平和だった。

 16日昼過ぎ、曾祖母急死の一報。全てを放り出して帰省。まさか教育実習から2週間で再び秋田に戻るとは。

 その日の夜に戻った時、既に揃っていた親戚は誰も泣いていなかった。あまりにも急すぎて現実感を失っている感じ。前日まで近所の温泉に1人で行くくらい元気だったらしい。僕もてっきりこの人は100歳まで生きるものだと思っていた。

 亡くなった曾祖母の顔を見せてもらった。本当に蝋人形のようだった。きれいな顔で、眠っているようにしか見えなくて、今にも起きてきそうなんだけど、と親戚皆で話していたのを覚えている。祖母と大叔父夫婦がお葬式の日取り決めなど諸々に追われていて、僕は線香をあげて拝むことしか出来なかった。

 翌日、火葬と通夜。僕は納棺の時が一番涙が堪えられなかった。火葬でも葬儀でもなく。棺を、図らずも形見になってしまった品々と無数の花で満たしていった。棺を封印して、もう開けられない、会えないということがとても悲しかった。

 その少し前、棺の封印をする細長い布? みたいなやつに、皆でお別れの言葉を書いた時、それまで普段通りに振る舞ってきて諸々の事務作業に追われてながらも子供の面倒も見てた祖母が書いた「もう少し一緒に楽しみたかったです」という言葉を見た瞬間、ああ、やっぱりこの人も……と思って、目から涙があふれそうになった。

 斎場(火葬場)で、棺が炉の入り口へ運ばれて行った後、祖母が呟いた「この瞬間が一番嫌だね……」という言葉が記憶に残っている。

 待っている間、いとこの勉強を見ていた。それがどれだけ僕の心にひとときの安らぎを与えたことか。

 さらに翌日、葬儀。お経をあげて、お焼香して、拝んだ。亡くなった曾祖母が、自分のお葬式用として前もってかなりの額を渡していたらしく、とても立派な祭壇だった。

 僕は短いけれど弔辞を読んだ。泣きそうになるかと思ったけど、自分の番が回ってきた時は意外とそうでもなく、用意した言葉をすっと述べることが出来た。

 最後に、お経を読んでもらったお坊さんが言っていた「故人を失い、どうして良いか分からず途方に暮れるという人がいると聞きます。やるべきことは決まっています、故人のために供養をしてあげること、それでよいのです」という言葉が記憶に残っている。

7月

 バイトはようやく生徒に教えられるようになった。中学理科の担当で頻度は週1。授業の準備は自転車操業で、平日に大学に通ってる時も、思考のキャパの何割かをバイトの授業作りに費やさなきゃいけないのが結構しんどかった。あと、やっぱり授業終わったらヘトヘトになって、週1から増やすのは僕の場合学業に確実に影響出るなと思った。

 研究室では、4年生がオープンキャンパスに向けた準備が急ピッチで進んだ。装置の相当の数のねじを、夏の廊下で外したり締めたりする作業はなかなか大変だった。

 先行履修の期末は勉強してたので結構解けたと思う。時間が厳しかったので雑に答案書いちゃった問題もあったけど。レポートもがんばって結構解いた。

 7月最終日からオープンキャンパス。絶望的な暑さに高校生が気の毒だった。

8月

 期末が終わって、オープンキャンパスも終わって、いよいよ院試勉強本番。

 バイトは休みをもらうことを了承してくれた(はず。というか、入れる日を自己申告せよということだったので全て×で出した。これ僕悪くないですよね?)

 院試勉強は辛かったけど、楽しかった。詳しくは前書いた記事で。

 下旬にはもう院試本番。上島四兄弟のオレンジのTシャツで臨んだ。後ろの席の人、変なTシャツ着ててごめんなさい。手ごたえとしては、数学で小事故。そして統計で中事故。統計例年通りなら典型的な感じだしノリでいけると思ったんだけどなあ。他は結構最後の方まで解けたけど、例によって答案を雑に書いてしまった感がある。

 そして翌日には合格者発表。採点早すぎる。無事合格して皆で喜んだ。

 あと、金農の活躍を勉強の合間に学食のテレビで見ていた。

9月

 研究室同期が10月にハワイで開かれる(た)日米合同の物理学会で発表することになり、その研究を1ヶ月ちょいで行うことに。最初は装置組み立てたり回路組んだりで割と順調そうだったけど、データを取り出してから迷走しはじめる。

 1ヶ月強ぶりにバイトに復帰。しばらくすると教室長から呼び出され、院試離脱前の授業について「どういう順番で進めてるの? おかしくない?」と問いただされる。僕が離脱前に進めてた授業が、曰く順番めちゃめちゃで僕がいない間授業が回らなかったという事だそう。僕は新入りだったのでテキストに完全準拠してやっていたので、そんなことはないはずなのだが、叱られた。当時は1ヶ月抜けて記憶があやふやになったこともあり釈然としなかった。後になって僕が気づいた事だが、この件は使ってたテキストに欠陥があった。

 まあそんなことがあって、僕は教室長に目を付けられた。

10月

 バイトを実質クビになる。

 9月の件からその後しばらくして再び教室長から呼び出されて、詳しい経緯は長くなるのだが、まあ要するに僕の指導の価値観と教室長の方針が決定的に合わなかったということだった。この辺の話はかなり長いし僕も結構知り合いにしている話なので割愛。それで、僕にこのまま任せて良いか心配になって不安なので、このまま任せられるか少しの間考えさせて、というお言葉を頂いた。僕はそれに従うしか無い。

 

 そして、もし任せられないと判断すれば、クラス指導から個別指導の担当に変わることになるとも言われ、以前の件からこのバイトへのモチベーションが結構皆無だったので、個別になるなら辞めると言った。

 教室長の「考えさせて」の期限を2度延長され、教室長が至った答えは「現状2クラス担当していたのを、1クラスだけに減らすことは可能ですか?」というものだった。ん? と思ったので「意図を訊かせてください」と言えば「生徒に聞き取りしてみたら、一方(上位クラス)は僕の授業のレベルが物足りなくて、もう一方(下位クラス)はちょうど良いということだったので」との返答。意味が分からない。僕の教育観の問題では無かったのか? 

 ということで、僕は「それだったら辞めます」と答えた。

 辞めて正解だったと思う。

 あ、研究は何とかポスター完成までこぎつけて、研究室同期は無事学会で発表した。完成までは色々あったけど。「ROOT分かんねえ」が研究室同期の共通の口癖になった。そしてハワイ羨ましい。

 あと教職は最後の科目である教職実践演習が始まった。10月の土曜は1、2限がすべてこれの講義が入った。まずその点で僕はこの科目に敵意を抱く。

 12月のフィールドワークに向けた授業作りは、僕が出したラプラスの悪魔を題材にする案が通り、そのスライド原案も最初は自分がすべて作った。大変だったけど、スライド作りは好きなので別に良い。別に分担することでもないし。

 そして、理科の演習で学部1年向けの実験科目の指導をTAに混じってすることになった。無給で。まあ当然なんだけど、なんか敗北感がある。一応、予習は結構して臨んだけど1年生もその場でテキスト読んで理解してしまうのであまり教えることが無かった。

11月

 今までサークルのことをほぼ全く書いていなかったけど、2018年も今まで通り練習会に顔を出していた。そして11月、恒例の学祭で演奏をした。今回は趣向を変えてモーツァルトにチャレンジしてみたけど、完全に選曲に失敗した。やっぱりモーツァルトを聴かせるレベルで弾くのは難しかった。

 今年の学祭は母校の理数科同期が見に来てくれた。夜に男3人で日本酒を飲む会をやって非常に幸せな気分になった。

 初旬、卒業研究のテーマが決まる。元々はシミュレーションをやってみたかったけれど、助教2名の策謀により装置開発に携わることに。まあそっちの方が4年にとってハードル低いというのはその通りなんだろうし。

 最初は僕の直属の助教さんと一緒に修論読み会なんかもして勉強もしたけど、助教さんが多忙を極めてかまってもらうことができず、そもそも発注した物品が届かないと製作に入れないということで中旬くらいから停滞。解析の練習をしてみようということで、助教さんは僕ともう1人の同期に今走ってる実験データで基本的な解析ソフトの使い方を勉強してみて、という課題を与えてきたけれど、そのへんはハワイ学会の実験でも結構やってたのでさくっと終わってしまう。

 八木ゼミを始めたのも11月。元々Twitterで冗談半分で「ゼミやりません?」と呟いてみたところ、今まで絡んだ事なかった後輩が食いついてきて、始めないわけにはいかなくなった。そして、知らない間に原子核の知り合いが何人か集まるように。感謝感謝。

 後輩くんも「原子核のことよくわからないので、広く浅く知りたいです」って感じで始めたはずが、八木はやはりガチだった。そして後輩くんもかなり強い物理学徒だった。あの場での僕は明らかに物理弱者になっている。主催者なのに。

12月

 色々な面で忙しく、そして非常に幸運に恵まれた1ヶ月だった。同時に自分のこれからの課題を多く見つけることになった。

 12月はうちの研究グループが加速器のビームの割当があり、研究室総出でとりかかることになった。僕は4年で、しかも放射線講習会を受けていないので実験ホールに入れず、暇を持て余すことが多かった。それでも、できる範囲での手伝いはやった。

 研究室全員出動していたので、当然僕の卒研は進まず。ビームタイムが終わった後も研究室のイベントがあり、全く何も出来なかった。非常にまずい。

 教職は、無事フィールドワークが終わる。レポートも気合いで書いて提出。これで4年かかった教職課程が完全に終了した。ちょっと感動しなくもない。

 飲み会が多い! 週1、2のペースで飲み会をしていた。財布から金がどんどん飛んでいった。研究室、サークル、学部の友達と、あとクリスマスイヴの夜に突発的に理数科同期と日本酒を飲む会が開かれた。

 そう、今年のイヴは1人ぼっちじゃなかったのである! 青葉山で25日提出期限の教職レポートをキレながら完成させて、家に帰ってふて寝しようと思ったらTwitterで理数科同期の法律オタクからクリスマスケーキのお誘いが。謎のテンションで一番町で合流して、そのまま男二人で光る木をみたあとでファミレスに入って適当に食事を済ませ、某所で藤崎のうまいケーキを食べてから居酒屋で日本酒を飲んだ。何だ今年のクリスマスイヴは、結構充実してるじゃないか。

 他にも泥酔お月見事件とか、真冬の極寒八木山橋肝試しとか、色々とバカをやった。恥ずかしいのでココには書かないけど。というか7000字近く書いて、さすがに文章考えるのも疲れてきた。要するに、非常に楽しかったし、幸せな時間だった。

 そんな中で、自分が直面しつつある問題なんかも見えてきた年末ではあったけど、それはまあ次の記事ということで。

 

 次回は、2019年の目標を書きたいと思います。